タイタニック号沈没 囁かれる噂と色々な事実

タイタニック号沈没 囁かれる噂と色々な事実

1912年(大正元年)に発生したタイタニック号沈没事件は、これまでに何度も映画にもなり数々の考証も加えられ「タイタニックマニア」と呼ばれるコレクターまで存在するほど世界的に有名な事故です。この沈没事故は、あまりにも有名なので、これまでに沢山の説が提唱されており事実と噂の区別が付かなくなり「何が本当なのか」が漠然としてしまっている点も多くあります。そこで、タイタニック号沈没事故に関する情報を少し整理してみたいと思います。

なぜ「不沈船」と呼ばれた船が氷山に当たったくらいで沈んだのか?

タイタニック号は二重底になっており、船全体は16の防水壁で仕切られ、そのうちの2箇所が浸水してしまっても沈まない安全設計が施されていました。ですので、氷山の衝突により相当に大きな穴が沢山あいてしまったのだろうと長らく信じられてきたのですが、実際に海底に沈んでいるタイタニック号を調査した結果、「それほどでもない」事が判明しています。船室への浸水時間と浸水量から逆算すると300フィートくらいの裂け目があったはずなのですが、実際には39フィートの裂け目しかなかったのです。

にも拘わらず、船底部に大量の海水が流入してしまった理由は現在では以下のように説明されています。

確かにタイタニック号の船底は16の防水壁でブロックされていたのですが、その防水壁はぴっちりと閉じた物ではなく上部に隙間が有る物でした。その隙間は海水面よりも上にまで伸びていましたので仮に船体のどこかに穴が入って浸水してきても防水壁を越える事はないだろうと考えられていたと思われます。周りのブロックに十分な浮力があれば浸水してきた水は周辺の海水面以上には上がってきません。タイタニック号の場合も穴が開いたのがFからKの間の1つか2つのブロックであれば浸水してきた海水が防水壁を超える事は無く沈没しなかったと考えられます。

ですが実際に穴が開いたのは上図の緑色の○で囲った4箇所だったのです。

船には万一、浸水してきた時のために汲みだしポンプという物が用意されていますが氷山と衝突した時、タイタニック号は22ノットで進んでおり、これは1秒あたり11.3m進む速さで相当な高速ですが、これは大西洋のような大海を航行する時には常識的なスピードでした。つまり相当な高速で衝突し前部4箇所ブロックに亀裂が入り浸水してきたのです。

そして、汲みだしポンプでは間に合わない量の浸水が発生した結果、AからEまでの4ブロックが満杯に浸水してしまい船の前部分の重量が増大し船体が前のめりになってEの防水壁の上部を越えてE-Fブロックに浸水、さらに前のめりになりF-Gブロックに浸水、という具合に次々に船底部に浸水が進んでいった結果、遂に沈没してしまったのです。

じょじょに浸水していった結果、氷山に当たってから沈没するまで1時間以上という長い時間がかかったのです。つまり「当たり場所が悪かった」のと「一度に4ブロックで浸水が始まった」のが致命的だったという事です。

しかし氷山に当たった位で鋼鉄製の船体に数箇所もの亀裂が入るのでしょうか?

実はタイタニックに衝突した氷山の写真が残されています。写真では分かりにくいですが高さは20mと結構大きな物です。衝突部分が変色しているのが分かると思います。

氷山というのは上に見えている部分と下に隠れている部分の大きさが相当に違う物だそうですが氷である事は変わりません。氷でもそこそこの硬さはありますが鋼鉄の板に亀裂を入れるほどとは思えないのですが、これについては諸説あり、当時の鋼鉄は現在の物と違い不純物を多く含んでおり硬度が弱く、かつ低温では更に強度が落ちてしまう、という事と衝突の衝撃で船底の鋼板を止めていたリベットが数本、弾けとんでしまい「隙間」が沢山出来て、そこから浸水して来たと言う説が有力で、実物の検証結果もこれを裏付けています。

氷山は避けられなかったのか?

避けられたかどうかは操船経験のある人が現場にいないと判断できない事ですが、事故発生時に操舵室にいた人達の証言が残されています。それによると、まず当直見張員だったフレデリック・フリートから「真正面に氷山有り」と操舵室に連絡が入ります。

その連絡をジェームズ・ポール・ムーディ六等航海士が受け取りウィリアム・マクマスター・マードック次席一等航海士に報告します。マードック航海士は舵を取っていたロバート・ヒッチェンスに「Hard starboard!」(取り舵一杯!)と命令し、ついでエンジン室に電信で「Full Astern!」(全速後進)の指示を出しています。しかしフリートが氷山を発見した時点で氷山までの距離は450mしかなく秒速11mで進むタイタニック号に残された時間は44秒と少ししかなかったのです。しかし当時の蒸気エンジンを逆回転させるには複雑な作業が必要で、結局、スクリューを止める事までは、できましたが逆回転させるのは間に合わなかったそうです。スクリューが止まると前進力が失われ舵の効きが悪くなり旋回能力も低下します。そして30秒後、かろうじて正面衝突は避けたものの船首右側側面部分が氷山をこするような形でぶつかってしまいます。

もし、そのままの速度で進んでいたら旋回能力が維持され完全に避けられた可能性もあったかもしれませんが、その分、早く到達してしまいますので非常に微妙な所で、マードック航海士の判断指示はミスではない、とされています。

となると「もっと早く見つけられなかったのか」という問題が残りますが、事故現場は暖流と寒流がぶつかる場所で霧が発生する事が多く、当日も相当な濃霧で視界が相当に悪かったとの事で早期発見は難しかったと判断されています。

氷山はぶつかっても危険ではない

当時の船乗り達には「氷山は危険な物ではない」という認識があったそうです。事故海域は氷山が多く、ギリギリでかわす事は日常茶飯事であり中には正面衝突した船もあり、ドイツの定期船SSクロンプリンツ・ヴィルヘルムは氷山に激突し船首が壊れましたが無事に航海を続けていました。そういった経験から「氷山はそれほど危ない物では無い」と思われていたようです。先に述べたタイタニック号の沈没過程を考えると、むしろ正面衝突して船首で氷山を破壊してしまった方が大丈夫だったのではないか、とすら思えますが一般的には「避ける行動」に出るのが普通でしょう。だから、これはあくまで結果論に過ぎません。

救命ボートとSOS信号

船底ではどんどん浸水が進み、とても防ぎきれない状況になっており、それはブリッジにも伝えられ衝突から30分経ちエドワード・J・スミス船長は船を捨てる覚悟を決め救命ボートの準備を命じ、乗客に避難指示を出します。タイタニック号の救命ボートは20艘が用意されており全部で1178人を乗せることができましたが、事故当時の乗船人数は2224人で全員を乗せることは最初から不可能でした。しかし当時の法律では乗船員全員分の救命ボートを用意しておく事は義務付けられておらず、これは違法ではありません。スミス船長が乗船人数の半分にあたる数の救命ボートを装備したのは、事故海域は定期船航路で船が沢山いたので、万一、避難する場合は「他の船に乗り移ってもらう」事を想定しており2往復すれば全員が乗り移れると判断したためと言われています。タイタニック号事故以来、法律で「必ず人数分の救命ボートを用意する事」が義務付けられる事になります。

救命ボートの準備を命じられた船員達はすぐに救命ボートを海上に下す作業を開始しましたが、カバーがかけられており上下逆向きに吊るされている、という状況で、えらい手間がかかったそうですが、全ての救命ボートを海上に下す準備が整いました。

また急遽、SOS信号が発信されましたが、モールス信号のSOS(SAVE OUR SHIP)が規定されたのはタイタニック号事故の6年前で決して、普及されている信号とは言えませんでした。SOSをモールス信号にすると ・・・ --- ・・・ となりますが、これは決して打ちやすいものでは無く受信側にとっても文章として捉えるのは無理でSOSという略記号が制定された、という事を知らないと理解できない物だったのです。

しかし59km離れた場所にいたカルパチア号は意味を理解し、急遽進路を変え全速力で現場に向かいました。またマウント・テンプル号も意味を理解し進路を変更し現場に向かいましたが氷山の群れに行く手を阻まれてしまい足止めをくらってしまいます。

一番、近くにいたカリフォルニア号は流氷に閉じ込められ動けなくなっておりカリフォルニア号の船長は「しょうがないから、ここで一泊」する事にして、停泊していました。

ですので、無線オペレーターは23:30に無線を切って就寝してしまいましたのでSOSは受信していません。タイタニック号がSOSを発信したのは23:45なので「あと15分起きていれば」と悔やまれますが、仮に受信できていたとしてもカリフォルニア号自身が身動きが取れない状態だったので救助活動に行けたかどうかは疑問視される所です。

ですが世論では「一番近くにいたのに救助活動をしなかった」という事でカリフォルニア号のロード船長は強い非難を浴びる事になります。巷の映画や伝記ではカリフォルニア号は完全に悪者にされていますが「流氷に閉じ込められ身動きできなかった」事を正確に描写している物は多くありません。

避難指示を受けた乗客

タイタニック号には一等、二等、三等の三クラスの乗船客がおり、一等客は少数で、次に二等客で、大多数は三等客でした。そして救命ボートのある場所への距離も一等が一番近く、次に二等、三等は最も遠い場所にありました。タイタニック号には船内に一斉に呼びかける放送システムが無く非難指示は船員が各客室を回って声をかける、というやり方で行われましたが一等客は少数でしたので丁寧な案内が可能でしたが二等でも人数が多く、ドアを開けて声を駆け回るのが精一杯で、三等に至っては、とても全室を回る余裕は無くドアの外から「逃げろ」と大声を張り上げる事しか出来なかったそうです。二等、三等船客には正確な情報が知らされておらず、デッキに出たものの寒いので、また船室に引き返したり、氷山のかけらでサッカーに興じる人がいるなど、当初は全く危機感を感じていないようでした。しかし救命ボートへの乗船は開始されており、やむなく少数の人を乗せて船を離れたボートも多くいました。この時、船底のエンジン室では蒸気エンジンの爆発を防ぐためにエンジン内の蒸気を煙突から全力で吐き出させる作業が開始されており、それは物凄い轟音で甲板ではとても会話が出来ず、身振り、手振りで救命ボートへの乗船を促していたそうです。

唯一の日本人乗客

日本の鉄道院副参事、細野正文氏はロシアへの留学を終えて帰路に着くためタイタニック号の三等船室に乗っていました。ちょうど、日本への手紙を書いている最中に外で大きな声がしたので「何事か」と思い、部屋の外へ出た所、一人の船員がおり救命ボートのある方向を指差し「harry up! This way!」というので指差された方向に行ってみる事にしました。

船はまだ傾いておらず船客も危機感が薄い時間の話です。で、救命ボートの乗り場に行ってみたら、数名が並んでいたので、そこに並んでいた所、「まずは女性と子供優先」という事で一旦、脇で待たされたそうですが近くに女性も子供もいなくなり、まだボートには空きがあったので船員が「This man!」と叫び細野氏の背中を押し救命ボートに乗り込ませボートは船を離れたそうです。ボートには結構な余裕があったそうですので、相当に早い段階で船を離れたボートに乗れたようです。幸い、寝る前で、まだ背広を着ていましたが様子見に部屋を出て、そのままボートに乗ったので持ち物は全くありません。ポケットを探ると「書き損じた手紙の便箋2通」があるだけでした。何とか日本に帰りついた細野氏はしょうがないので、家族にその便箋2通を「お土産」として渡したそうです、

「もっと欲しかったら大西洋まで取りに行ってらっしゃい」と笑っていたそうですが、この細野正文氏のお孫さんがYMOのベーシストで作曲家としても活躍している細野晴臣さんで細野家には、その時の「お土産の便箋」が今でも額縁に入れて飾られているそうです。

現存するタイタニック号の備え付け便箋は他には存在しておらずサザビーズ等のオークションに出したら一体、いくらになるのか想像も付きませんが、とにかく「歴史的貴重品」である事だけは事実です。その後、日本が超国家主義の時代になると道徳の教科書に細野氏が生きて帰った事について「自分が助かりたい為に女、子供を押しのけて救命ボートに強引に飛び乗った卑劣な役人」等の事実無根の誹謗愁傷が書かれた事もあり、無念な思いをされた事もあったそうです。しかし細野氏が早い段階で行動を開始できたのは全くの幸運でした。また救命ボートのある場所までたどり着けたのも幸運でした。後述しますが三等船客は

「特別扱い」されており、救命ボートの乗り場にたどり着くのは至難だったのです。

救命ボートの状況

タイタニック号の救命ボートへの乗船作業は0:45から開始され、順次、5分おき位に乗船させ船を離れていきました。以下に離船順番と乗船者数を示してみます。()内は定員数です。細野氏が乗ったのは右舷だったそうなので三等客室から救命ボートの場所までたどり着く時間を勘案すると8番ボートではなかったかと推測されます。

1:7番ボート 28人(65)右舷 0:45頃

2:6番ボート  28人(65)左舷  0:50頃

3:5番ボート 41人(65)右舷 0:55頃

4:3番ボート 32人(65)左舷 1:00頃

5:8番ボート 39人(65)右舷 1:05頃

6:1番ボート 12人(40)左舷 1:10頃

なんともったいない話かと思われるでしょう。初期段階で船を離れた救命ボートはどれもガラガラだったのです。船員は救命ボートに乗るよう説得しますが数々の要因が乗客をして救命ボートに乗ろうと思わせなかったのです。

  • 船員は英語で説得したが英語が理解できない船客もいた事。
  • エンジンの爆発防止のための煙突からの蒸気排気音が物凄く会話が聞こえなかった事。
  • この時点では乗客には異変が感じられず「むしろ船にいた方が安全だ」と思う人が大半で救命ボートへの乗船を拒否した事。

1時20分

1時20分近くになると船体が傾き始め、乗客も異変を肌身で知る事になります。

すると一斉に残った救命ボートに殺到し始めました。いよいよパニック状態の始まりです。女性と子供優先という事で妻と子供に別れを告げる男性。夫を残して行く訳にはいかないと自分も残る事を決めた妻。この時点で救命ボート乗り場にいた人達は、ほとんどが一等、二等船客でした。それでも救命ボートの担当船員は女性と子供を優先させ成人男性は乗せようとしませんでした。強引に乗り込もうとする成人男性を担当船員は拳銃で脅し乗船を阻みました。では三等船客はどうなっていたか、というと救命ボートの乗り場へ急いでいましたがタイタニック号は一等、二等と三等の間に仕切りを設け三等船客は救命ボート乗り場の有る一等船客室近辺には入れないようにしていたために、救命ボートにたどり着けないでいました。

これはアメリカ合衆国移民法に従った処置で三等船客はアメリカへの移民がほとんどであったので感染病などの検疫問題があったために取られていた処置で合法的な物だったのです。しかも、最も救命ボート乗り場から遠く、たどり着くには迷路のような通路を通らなければなりません。タイタニック号の三等船客はアイルランド系移民が大多数だった事もあり船員の中には三等船客が救命ボート乗り場に着けないよう意図的に妨害行為をした人が多数いたと報告されています。細野正文氏が三等船客であるにも係わらず、早い段階で動けたのは英語が堪能で人品骨柄がとてもアイルランド移民には見えなかった事から船員に通路を案内してもらえた事が要因と思われます。

これは推測ですが三等船室も「移民用」と「そうでない人用」に意図的に分けられていた可能性もあります。そうでないと到着時の検疫がスムースに進まないだろうと思われるからです。そして「そうでない人用」の部屋は早めに声掛けをされていた可能性も考えられます。

折りたたみボートC

1時40分に折りたたみボートCが降ろされました。しかし、このボートは船頭に近い位置にあり、船が傾いて残された乗客は船尾に移動しており周辺には誰もいませんでした。するとタイタニック号の所有会社であるホワイト・スター・ライン汽船会社の役員であるイズメー氏が黙って乗り込みました。

船員も一瞬、え? と思ったようですが、そのまま折りたたみボートCを離船させます。

イズメー氏についてはwikipediaでは「社長」、他の各種本では「専務」と記載されており当時の役職が今ひとつはっきりしませんが、いずれにしろタイタニック号の所有会社の最高役員であったことは間違いなく沢山の死者が出た事故の責任者であるにも係わらず生存したとして猛烈な非難を浴びます。その後、イズメー氏は人目を避け隠遁生活を一生涯、送ったと言われています。

折りたたみボートD

2時5分に実質的に最後の救命ボートとなる、折りたたみボートDが25人を乗せ離船します。数百人もの三等船客が折りたたみボートDの離船間際にやっと救命ボートの場所にたどり着きますが既に救命ボートは離船した後でした。まだ折りたたみボートが2つ残っていましたが船の傾きは一層激しくなり、残りのボートを諦めた船員達は自ら海中に飛び込みます。しかし船底では爆発を阻止しようと、ほぼ全水夫が最後の最後まで奮闘を続けていました。また甲板では4名の弦楽奏者が演奏を続けていました。

遂に沈没

タイタニック号は段々と前側へ傾き、遂に2時20分に海中に完全に沈んでしまいます。そしてドア、家具、コルク栓などが大量に海上に浮いてきました。中には壊れた木片もあり、海中に飛び込んだ人達の中にはこういった瓦礫で殺されてしまった人達もいたそうです。その時の海中の温度は-2度です。とても耐えられる物ではありません。水中に飛び込んで助かった人は、ほとんどいませんでした。

救命ボートに乗った人々の間では助けに行くかどうかの議論がされ、中には助けに戻ったボートもありましたが、引き揚げた人々も、すぐに低体温症で死亡してしまい、諦めざるを得なかったそうです。周辺域は断末魔の人々のうめき声と悲鳴で溢れ、救命ボートの人達は目をつぶり、耳を手で塞ぎ目の前の地獄のような有様を黙って耐えるしかなかったそうです。

その後

やっと到着したカルパチア号に助けられた救命ボートの人達もPTSDで生きた心地はしなかったそうです。カルパチア号がニューヨークに到着した時点で既に事故のニュースは大々的に報道されており世論は嘆きと怒りに満ち溢れていましたが最終的に裁判所は「事故は不可抗力による物」と判定し有罪になった人は出ませんでした。

数々の噂

タイタニック号の事故は文化的な影響も大きく、数々の芸術作品がこの事故を題材にしました。その一方、こういった大事故にはよくある、「噂」がとびかいはじめました。

そのいくつかをご紹介します。

  • オリンピア号すり替え説

タイタニック号には姉妹船としてオリンピア号、ブリタニック号という2隻の同設計の船が存在します。そして事故を起こしたのは実はオリンピア号である、という説です。

オリンピア号はタイタニック号より早く就航しておりタイタニック号就航前に巡洋艦と衝突しダメージを受けています。そこでダメージを受けたオリンピア号をタイタニック号として就航させ沈没させ保険金をもらおうとした、という物です。

この説はTVでも報道された事が有り信者も多いのですが、タイタニック号就航時、オリンピア号は船尾の修理を行っている真っ最中でドックに入っていた事が確認されており全く成立しない説です。後述しますが、そもそもタイタニック号の船長がスミス船長に変更されたのはオリンピア号が修理中でドック入りしていたからなのです。

  • ブルーリボン賞説

当時、大西洋最速横断記録をかけたブルーリボン賞と言う物があり、タイタニック号はその賞を狙うために全速力で航海した結果、氷山にぶつかってしまった、という説です。

タイタニック号沈没時、最速記録はモーリタニア号という船で時速26ノットでした。タイタニック号は最高速度23ノットで設計されており最初からモーリタニア号に勝てるはずがないので、これも全く成立しない説です。

  • 保険金狙い説

船長が航海直前になってエドワード・スミスに変更になったが、彼は直前に事故を起こしたオリンピア号の船長をしていた。そしてタイタニック号の保険金は100万ポンドで建造費の50万ポンドを遥かに上回る金額を受け取っている。ホワイト・スター・ライン汽船会社の実質的オーナーであるジョン・モルガンがタイタニック号への乗船直前にキャンセルをしている。モルガンは何かが起こる事を知っていたのではないか? という説です。

スミス船長はホワイト・スター・ラインの筆頭船長で、筆頭船長は、その会社のフラッグシップ船の船長をする権利を持っています。オリンピア号が修理中でドック入りしていた時に彼がタイタニック号の船長になるのは当然の権利であり、不思議でも何でもありません。また保険金100万ドルはほとんど全てが死亡者への慰謝料として使われており、ホワイト・スター・ライン汽船会社は逆に「持ち出し」となっています。

ジョン・モルガン氏の行動については詳細は分かりませんが、彼はモルガン財閥の総帥でありスケジュール変更が起きても、おかしくはありません。

またモルガン氏の他に全部で50人の直前キャンセルが確認されており、直前キャンセルをした人はモルガン氏だけではありません。

事故の状況から見て「意図的に起こした物」とは考えられないのです。もし意図的に沈没させようとするなら「氷山にこする」なんて不確実な方法は取らず、火事でも起こした方が、よっぽど手っ取りはやい筈です。

  • ミイラの呪い説

大英博物館にあるミイラを運んでいたために、その呪いで沈没したと言う説です。

これは全くの事実無根でタイタニック号は大英博物館の問題のミイラをそもそも運んではいません。この話は乗客の誰かが、その「大英博物館の呪いのミイラ」の話を知っていて「この船に積んでるんだぜ」と冗談を言った事に由来する物と言われています。

未だに話題になるタイタニック号沈没事故ですが、その話題性はこの事故が色々な作品に取り上げられ文化的な題材として使われる事が多かった事による物と考えられます。

不沈船と称した豪華客船が処女航海で沈没、というのは確かにインパクトがあります。

また船内で繰り広げられた数々の出来事も話題性、ドラマ性が強く、まさに人間の色々な姿が凝縮されたような世界が、そこにあり題材にしたくなるのは当然でしょう。現在、大西洋に沈んでいるタイタニック号は腐食が進み、あと80年もすると跡形もなくなってしまうそうですがタイタニックを題材に使った作品はこれからも作られ続けるでしょう。

そういった意味では「世界一、長命な船」とも言えるかもしれません。

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