知ると面白い 【石原莞爾大佐】の「人生最大級の間違い」と「唯一、尊敬した人物」

知ると面白い 【石原莞爾大佐】の「人生最大級の間違い」と「唯一、尊敬した人物」

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太平洋戦争がもし起きなければ、という仮定は無意味です。起こってしまった歴史に「たられば」を想定しても意味がないからです。多くの方は太平洋戦争が起きてしまった原因は当時の陸軍の横暴にある、と考えておられると思いますが、私もそう思います。

では、当時の陸軍の誰が悪いのか、となると東条英機という名前がまず上がるでしょう。何しろ開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃は東条英樹が総理大臣の時に起こったのですから。 その後も徹底抗戦の方針を崩さず、遂には広島と長崎に原爆を落とされる羽目にまでなったのです。

とはいえ、宣戦布告という大きな判断を東条英機に下させたのは、本人の判断だけではなく、当時の「超国家主義の風潮」にあった事も考慮しなければいけません。

戦前の陸軍史を存じの方は、当時の陸軍内部に「統制派」と「皇道派」という2つの派閥が有り、互いに相手をつぶそうと躍起になっていたことをご存じでしょう。 しかし、どちらの派閥も方法論こそ違え目的は「日本の領土を広げ資源を確保する」ことであることは同じでした。最終的には皇道派が主導権を握りますが、どちらが勝ったにせよ、太平洋戦争に突入した可能性は非常に高かったと言えます。

2.2.6事件

日本国内が「超国家主義的」な「挙国一致」をスローガンとする方向に動き始めたのは第32代総理大臣、廣田弘毅の時代からです。廣田弘毅は当時のエリートコースである一高→東大法学部→高文試験主席→外務省入省という、いわゆるキャリア組で軍とは全く関係のない人物でした。その廣田首相に「挙国一致内閣」というスローガンを掲げさせることになったのは、廣田弘毅内閣が2.2.6事件という青年将校達による反乱事件が起きた直後に成立した内閣であったからです。

2.2.6事件では高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣が殺され鈴木貫太郎侍従長が重症を負い、岡田啓介総理大臣も危うく殺される寸前でした。岡田総理は反乱軍のメンバーが総理秘書官兼身辺警護をしていた松尾伝蔵という人物を岡田首相と勘違いして殺したので難を逃れたのです。2.2.6事件の関係者は全員、銃殺処刑されましたが、この事件が世間に与えた影響は大きく「陸軍に逆らうと殺されかねない」という雰囲気が醸成されてしまったのです。

当時の内閣には陸軍大臣、海軍大臣という大臣がいたのですが陸軍大臣の発言は特に大きな影響力を持つようになったのです。

「でも陸軍大臣より総理大臣の方が上でしょ? なら抑えられたのでは?」と考えるのは間違いで当時の大日本帝国憲法では陸軍、海軍は天皇陛下の直属とされており、それを盾に「陸軍は天皇陛下直属であるから総理大臣の命令を聞く必要はない」という考え方でした。下手に軍の方針に反論すると統帥権(統率する権利のこと、つまり天皇陛下のみの権利)干犯(ひぼん、権利を犯すこと)である、と反論され手も足も出なかったのです。

そして皇道派の軍人には、正直な所、切れ者はおらず冷静に計画を練り適格に状況判断を下せるような人物はいませんでした。

しかし陸軍にも「切れ者」はいたのです。「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と戦争に真っ向から反対していた人物がいました。それが石原莞爾大佐でした。

石原莞爾大佐は『世界最終戦論』という物を唱えており「戦争は武器を進化させ、破壊力、殺傷力を大きくし最終的に戦争をすると人類絶滅につながることになり戦争が出来なくなり平和が訪れる」という物でした。

石原大佐は「軍事の偉才」とまで呼ばれる戦略家であり統制派にも皇道派にも属さず独自の構想を持っていました。それは中国に満州国という友好国を作り、日本は満州国を通じて資源を手に入れれば良い、という物でした。その構想から計画されたのが満州事変であり満州国成立なのです。この計画が見事に成功を納めたのはご存じの通りです。これらのシナリオは石原大佐が計画し実行したものだったのです。石原大佐は対中国、対ソ連への防衛策、攻撃策も計画しており、もし満州国成立にあたり両国が動きを見せた場合の備えもしていました。日本と近隣の大陸領土を統一し米国並みの大国を築き上げることが当面の目標であったと言われています。それを築き上げた後に米国と戦い『世界最終戦論』で述べた「戦争が出来なくなり平和が訪れる」状況を作り上げる事を最終目標としていた、と言われています。

2.2.6事件が発生した時、石原大佐は参謀本部作戦課長をしていましたが、東京警備司令部参謀も兼務していましたので、すぐに反乱軍の鎮圧を命じ、自身は一人で陸軍省に乗り込んでいきました。当時、陸軍の高官はほとんどが反乱軍に敵視され身動きが取れない状態だったのですが、石原大佐は自ら「満州派」と称して統制派でも皇道派でもないことを名言していましたので陸軍省を制圧していた反乱軍も石原大佐が敵なのかどうか分からず困惑したそうです。しかし反乱軍の首謀者の一人、安藤輝三大尉は石原大佐が陸軍省に入るのを阻止しようとしたところ、「何が維新だ。陛下の軍隊を私するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と一喝し陸軍省に入っていき、安藤大尉は何もできなかったそうです。陸軍省内に入ると反乱軍の中でも急進派として知られる栗原安秀中尉に拳銃を突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか」と威嚇的に問われた所「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と栗原中尉を一喝し、拳銃を下げさせたそうです。

石原大佐の部隊の活躍で反乱軍は鎮圧されたのですが、このことを聞いた昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述べたそうです。

廣田弘毅内閣は2.2.6事件の関係者の処分、陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、若手3人を除く陸軍大将の現役引退など大規模な事後処理を行いましたが、そのために逆に陸軍の予算拡張や意見も認めざるを得ませんでした。

つまり表面上は粛軍したのですが、将来的な禍根を残してしまったのです。しかも廣田弘毅内閣は「割腹問答」という詰まらない議論が原因で1年も待たずに総辞職することになってしまいます。

そして後継の総理大臣に浮上したのが宇垣一成陸軍大将でした。ちょっと考えると「また陸軍大将?」と思ってしまいますが、これには大きな理由があったのです。

人生最大の間違い

当時、総理大臣の任命権は天皇陛下にありましたが具体的な人選は元老・西園寺公望に任されていました。そして西園寺は宇垣大将が平和主義者であり軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢であり、現役の外交官をしのぐほどの外交手腕を持っており、陸軍大臣時代に軍縮を行い成功させた、という実績を高く評価していたのです。実際、戦後の東京裁判を主導した主席検察官のキーナン氏は宇垣大将を「ファシズムに抵抗した平和主義者」と呼び賞賛しています。そして、宇垣大将は誰もが一目置くほどの陸軍の大物であるため、彼なら暴走している陸軍の抑えも効くだろうと考えたのです。2.2.6事件以来、陸軍が急速に支配力を強めている状況に歯止めをかけ、状況を好転させるための切り札としての「宇垣大将指名」であったのです。

しかし石原大佐の目には宇垣大将は、そうは写っていませんでした。石原大佐には宇垣大将は統制派から皇道派に変節した風見鶏であり、「平気で態度を変節させる人物」と写っていたのです。しかも軍縮を評価されての総理大臣就任となると、石原大佐の計画が軍縮によって阻止されてしまう可能性も感じ取りました。

ですので、石原大佐は根回しをして誰も陸軍大臣を引き受けないように策略をしたのです。その結果、宇垣大将は組閣できず、遂に総理大臣就任を諦めざるを得なくなりました。

そこまでは「石原大佐の目論見通り」だったのですが、事態は思わぬ方向に動いてしまいました。なんと西園寺の次の指名は林銑十郎大将に下ってしまったのです。林銑十郎大将はバリバリの皇道派の人物ですが大将とはいえ、大した実績もない小物であり石原大佐は完全に無視していた人物だったのです。そして林銑十郎内閣は陸軍の支配力をますます強める結果となり、日本はいよいよ戦争に向かって動き始めてしまうのです。

宇垣大将の首班指名は西園寺にとって「切り札」であり、それに失敗してしまった事で西園寺は天皇陛下に「もう推挙の任を外してほしい」と懇願しているくらいでしたので相当に失意のどん底ににあったようです。従って、なぜ林銑十郎大将を指名したのか定かな理由は今もって不明です。

「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と言って戦争には断固反対だった石原大佐の策謀は完全に裏目にでてしまったのです。

石原大佐は後年、宇垣大将の組閣を阻止したことを「人生最大級の間違いだった」と反省していますが、まさに後悔、先に立たずでした。

歴史に「たられば」は禁物ですが、もし石原大佐が阻止せず「宇垣一成内閣」が誕生していたら? と考えたくなります。

宇垣大将は軍人でありながら、平和主義者で凄腕の外交手腕の持ち主でもあったからです。そして陸軍内での信望も強く通称、「宇垣四天王」と呼ばれる腕利きの部下も抱えていました。宇垣大将は西園寺の考えた通り「陸軍に抑えの効く人物」だったのです。もしかしたら宇垣一成大将が首相であれば陸軍を抑えながら、達者な外交戦術で対外交渉を行い陸軍の暴走を止め、戦争を回避できたかもしれません。だから石原大佐も「人生最大級の間違いだった」と反省しているのです。

しかし、起こってしまった物はもう、変えられません。しかし、もし日本が太平洋戦争を回避できたとしたら、現在でも陸軍省、海軍省が有り、陸軍大臣、海軍大臣が内閣にいて徴兵制度も残っていたかもしれません。そういった意味では「戦争が起こり、戦争に負けた」ことで得られたものもある、といっても間違いではないのでしょう。いずれにしろ、やはり歴史に「たられば」は禁物のようです。

唯一尊敬した人物

あまりにも切れ者であったため、石原大佐の目には自分より格上の人物であっても馬鹿者にしか見えなかった、という欠点があったようです。そんな石原大佐にも一人だけ尊敬する人物がいました。それは「最後の陸軍大臣」を務めた阿南惟幾(これちか)大将で、石原大佐も阿南大将のいうことだけは素直に聞き入れたそうです。阿南惟幾大将は石原大佐と陸軍大学の同期でしたが人柄・人格には特別に優れた物が有り、判断力も分別も有ると石原大佐は当時から尊敬の念を抱いていたそうです。もう、敗戦が色濃くなってきていた1945年4月(終戦4か月前)に組閣された鈴木貫太郎内閣で、あえて陸軍大臣を引き受け、最後の処理にあたったのが阿南惟幾大将でした。5月にはドイツが降伏し、日本は唯一残った枢軸国となり、制空権は完全に奪われ、大和も含むほとんどの艦隊が撃沈され、もはや戦争を続行するのは物理的に不可能な状況に追い込まれていました。そして広島と長崎に原爆が投下され、遂に最後の「ご聖断」によりポツダム宣下の無条件受諾が決まります。その4か月間、阿南大将は陸軍の強硬な意見を貫き通しました。そして内閣も総辞職となった日、阿南大将は最後に総理大臣室にいる鈴木首相の元を訪れました。以下はその場にいた迫水久常書記官長の回想です。

「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。 総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。 この点はなにとぞご了解いただくよう」と阿南大将は謝罪した。

私は阿南大将が本心では和平を願っていたこと、そして心にもない強硬な意見を言い続けてきたのは陸軍の暴発を抑えるためであることも分かっていた。そんな阿南大将の心情を思うと、自然に涙が出てきた。

「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました。今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と鈴木首相が答える。

「わたくしもそう信じております」と阿南大将は応じ、しばらくの間、二人は沈黙のうちに見つめ合っていた。

阿南大将がこわきに抱えていた新聞紙の包みを取り出して「これは南方第一戦から届けられた葉巻です。私はたしなみませんので、総理に吸っていただきたく持参しました」と言って包みを鈴木の机の端に置くと、敬礼して静かに退出していった。

鈴木総理は「阿南君は暇乞い(いとまごい)に来たんだね」とつぶやいた。私は阿南大将のがっちりとした後ろ姿を見送って、何か熱いものが身体から流れ出していくような感覚におそわれた。そして玉音放送が流された日、阿南大将は自宅で割腹し自決を遂げます。

敗戦となり米軍が進駐してきた時、米軍が最初にしたことは「石原莞爾大佐の身柄確保」でした。なぜなら石原大佐は対ソ連、対中国戦略の専門家であり当時の米国にとっては「最も欲しい人材だった」からです。

米国はドイツの敗戦時にもフォン・ブラウン博士などの人材確保をしており「有用な人材は殺さず活用する」のが方針です。

しかし、この時、石原大佐は病に倒れ入院中で身動きもできない状態だったので、米軍も身柄確保を諦めました。それでも米軍は石原大佐を戦犯リストから外しました。回復したら協力させるつもりだったようです。それに対し石原大佐は病床から「俺が戦犯でないとはどういうことだ」と逆に極東軍事裁判に訴えています。

その後、何とか回復したものの、あまり良い状態ではなく故郷の山形県に戻りました。

訴えを受けた極東軍事裁判所は病床の石原大佐を尋問するために山形県酒田市に出張法廷を特設し証人尋問を行いました。この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」と答え、東條英樹との確執については、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、東條をこきおろしたと言われています。結局、石原大佐が戦犯に指名されることはありませんでした。そして敗戦から4年後に石原莞爾大佐は60歳でこの世を去ります。

それから石原大佐の予想した通り、核兵器という進歩した武器が主力となり「使えば人類が破滅する」という、いわゆる冷戦という「戦争が無い、一見、平和な状態」が始まることになります。あまり語られることのない石原莞爾大佐ですが、間違いなく戦前、戦中を通じ最大級に傑出した人物であったことだけは間違いありません。そして現在の日本国憲法が公布された時の石原大佐の意見は以下のような物でした。

「日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきである。我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」

この言葉をどう受け止めるかは、人それぞれだと思います。

冷静沈着な戦略家であり人一倍、先見の明があり膂力もあった石原莞爾大佐。

穏やかであり、礼儀正しく、あえて最も辛い仕事を引き受けた阿南惟幾大将。

ともに戦前、戦中を通じ傑出した、お二人であったと思います。

そして、この二人の軍人が願ったことは、ともに「平和」であった、という事だけは覚えておいて頂きたいと思います。

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